どろろ

原作:手塚治虫、監督:塩田明彦、主演:妻夫木聡柴咲コウ
話:★★★☆☆、映像:★★★☆☆
 久しぶりに映画を見に行ってきました。昔原作を何度も読み返したのですが、もう何年も読んでいません。そのため頭の中の原作は現実の原作をも超えていたかもしれませんが、そんな私が見た割には、まあ許せる出来だったと思います。もっと陰惨なイメージを抱いていて娯楽ものになるということに抵抗は感じてましたが、映画はその点尺が短いのでどんどん詰め込み、客が考えないですむように、わかりやすい単純なストーリーや映像に調整されていました。なぜ、原作はどろろが子どもだったのか、なぜ百鬼丸ではなく、どろろがタイトルなのか、この監督はどう考えているのか聞いてみたい気になりましたが。
 主役の二人は正直違和感がありました。それでもほとんど許容できましたが、どろろが女そのものっ(言葉づかいが変なだけ)てことには抵抗がありました。原作に合わせる気があったなら演技不足といえますが(男を感じさせる一瞬が一度もなかった)、映画のストーリーではどろろの母は『女になりたいと思う男が現れるまで強い男でいろ』と説いて育てます。別に女を捨てろとは言ってないし、セリフだけ男だと言ってればよいという解釈をしたのでしょうか。ネタばれですが、最後のシーンで『女にはならないからな』と毒づいた後、百鬼丸股間を蹴り上げるシーンがあります。最初、一緒に旅を続けるからって惚れてるわけじゃないぞ、という意味で納得してたんですが、そもそも女ならそういう言い訳をするのもわかります。しかし、元々男同士として刀をもらう目的で旅を一緒にしていたはずなので、そんなセリフを必要とするのはどういう状況なのかと。刀はもういらないのに何故一緒に旅をするのかという百鬼丸側からの問い(もちろん、どろろがそういう疑問を勝手に想定して答えているわけですが)に、男としてはついていけない理由があったのでしょうか。その点で結局どろろはずっと女だったのではないかと思ってしまいました。ただ、それでも女ではなかったし、これからもならないぞ、と言わなければならない理由があるとしたら、工口マンガ的発想をすれば、これまで男だからという主張から、後ろだけしか使わせてなかった。しかし女として惚れてついてきたと思われたら前もOKしたと思われる。だから、当面はお預けだと言う意味で股間を蹴りあげる(痛みはいずれひきますから永久にだめといってるわけじゃない)、ということでつじつまがあいます。もちろんこんなバカな解釈のはずもないでしょう。男として生きてきたはずのどろろが男同士ならまずやらない金的攻撃を最後にやった理由がよくわからなかったです。口では女じゃないと言うけど、行動は常に女そのものってことでOKなのか?