松浦理英子/犬身

犬身

犬身

 相変わらず、こだわりある作品を書かれる人です。冒頭で唐突に出てくる粉瘤の話の辺りでは読んでて気持ち悪いくらいのムードが出ていたのですが、その後は比較的落ち着いた(?)展開でした。落ち着いたというのは私の感覚が余裕を持って話に付いていけたという意味です。
 自称、種同一性障害*1の主人公房恵はずっと自分は半分人間で残りは犬だと意識しながら生きてきた。「犬の眼」というタウン誌の取材で知り合ったバーのマスター朱尾との不思議な契約により房恵は本物の犬になり梓と幸せな生活を始める。梓は単に犬から見て魅力ある女性というだけでなく、複雑な家族関係があり、それをフサ(犬になった後の房恵の名前)が知るにつれ、お話は展開をみせていく・・・。みたいな話です。梓と兄の某シーンは混み合う電車の中で立ったまま読んでましたが、なんとも言えない不快感を顔を滲ませていたのではないでしょうか。壊れた男ってのは、ホントむかつく。
 実際人間の主人公が別の動物になって生活する話はよく目にしますが、松浦嬢が描きたかったのはそんな犬としての生活をおもしろおかしく描くだけでなく、これまでの作品がそうだったように、セクシャリティ(sexuality)のこと。「ナチュラル・ウーマン」では女性同士、「親指Pの修業時代」では女性の足の親指にPがついた話と徐々にリアリティよりもセクシャリティそのものを題材にした創作に興味が移り、今回はもはや人間同士ではなくなったストーリーにまで発展したわけです。ただし、そもそも犬がどういう思考や感情を持っているのか考えると、率直に言わせてもらうと、単に食欲や性欲に対して本能的に従順に振る舞う、いわゆる媚びた行動をしてるだけで、深い考えや感情は全くないと思うわけで*2、この作品でもあくまで房恵がそうだと思っている犬の気持ちに基づく行動をとってるだけで、犬本来の感情とは別ものだと思ってます。だから犬と無関係かというとそうではなくて、普段見せる犬の行動にこのセクシャリティを語るものがあるからこそこの小説が成立しているのであり、私はいろいろ考えながら最後まで楽しんで読むことができました。
 SEXUALITYをSEX、FUCKへと短絡的に結びつけた話をさせてもらうと、工口業界で犬は一番活躍している動物なんじゃないでしょうか。馬もよく引き合いには出されますが、マンガでは圧倒的に犬が多いように思います。私はその分野を好んで読むわけじゃないので詳しくは知りませんが、栗田勇午は別格として、山文京伝やたいらはじめもよく犬を使ってました。なんで栗田氏が別格かと言えば、それしか描かないのもあるけど、犬との行為=快感と明確に結び付けた感じがすること。山文京伝氏もすぐに快感につながるものの女性は自分が堕ちたという自覚を強くもたせていたように記憶しています。たいら氏の場合はお姫様なんかを貶めるのが目的で使っているだけのようなので獣姦に対する印象が大きく異なります。ちなみに、生まれて初めて獣姦を知ったのは工口SF作家の式貴志の作品じゃなかったかと。犬どころか猫とか鶏ともやってたような... --;
 すっかり脱線しましたが、この本はそういう話じゃありません。ただ私にとってセクシャリティを強く感じる瞬間はやはり行為そのものなので、こんな話をしてしまいました。愛情を持つことは性別や種別で制限されるものではないとは思いますし、松浦嬢にはこれからも期待しています。

*1:主人公の造語で、女の姿で男の心を持つ性同一性障害と違い、人間だが心は犬である状態のこと

*2:ちなみに私は絶対の猫派です